あれから2ヶ月

相変わらず何事もなかったかのように時間は流れていて、抗っても一緒に流されていく自分が居て、日々あの子のいない寂しさが薄れていくのを実感している。

あの時自分は何を思っていたろう。

水も口にしなくなった異変を目のあたりにしながら家を出て、仕事中は気もそぞろ。
誰にも看取ってもらえない間に、あの子はいなくなってしまって。

仕事を終えて職場を出た時には雨がしとしと降っていて、帰宅してあの子に触れたのは今くらいの時間だったろうか。
冷たく、硬く、重たくなってて。

『あはれな一個の生命を正視する時、世界はただこれを遠巻きにする。』
高村光太郎の詩の一節が、頭のなかをぐるぐる回り続けて。

まだ鮮明にあの時の光景は覚えてる。
覚えているんだけれども、今はあの時ほどのつらさを感じなくなってしまってる。

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2008.12.29 17:42
じょんいちろー
http://john001dahoo.tuna.be
こんばんは。
先日いただいてましたコメントには、お応えしないままのかたちとなってしまっていてすみませんでした。それなのにまた、力の沸いてくるコメントをくださりありがとうございます。

皆さんのひとつひとつの言葉が、私のなかでは本当に大きな支えとなっています。

「このままでは駄目だ。」と、あれから色々な事を考えてきました。
でも、自分で自分を納得させる。それはとても難しいことで、
そもそもその行為はけっきょく言い訳であって、自己中心的な考えにほかならず、そんなことを考える自分自身にまた嫌気が差して。

何処とも表現できない暗い場所に身動きもままならずどっぷりと嵌まり込んでしまいそうなところを、皆さんに救われてきました。

本当にありがとうございます。


>追伸
じょんいちろーさんの気持ちをきっかけに折れかけたきもちを立て直し、ある件をやりました。
>僕も何らかのお咎めがあるかもしれません。

私なんかに気をかけたがために、取り返しのつかないことになってはいませんでしょうか。
本当にすみません。nppさんの無事をお祈りしています。

2008.12.26 23:51
npp
きっと誰だってそうですよ。僕もそうです。
百も承知だけど、出逢いがあれば必ず別れはあります。
どんなに悲しい事も徐々に悲しみは薄れていきます。
絶対にこの悲しみを忘れたくないと思ってても、日々悲しみが薄れることを感じ、激しい自己嫌悪に陥ることもある。
いやな表現ですが、生理学的な観点から悲しみや怒りが薄れることは人間の人格の自己防衛のための本能的な作用だと思います(悦びも薄れるから、またその悦びを得ようとする)
でも、人はみなそうやって大切な存在の別れを受け止められ、心の中にその存在が再び蘇るのではないかと思います。
悲しみばかりより、楽しい思い出がたくさんあったはずです。(だから余計悲しくなるんだけど)
絶対にその悲しみは消滅することはないから、その分ジョン君との楽しい思い出を忘れずにいることがじょんいちろーさんの役目ではないでしょうか。
きっとジョン君もじょんいちろーさんの明るく優しい心の中で元気に駆け回りたいはずです。

追伸
じょんいちろーさんの気持ちをきっかけに折れかけたきもちを立て直し、ある件をやりました。(今はその後処理で周りでゴタゴタしていますが)
僕も何らかのお咎めがあるかもしれません。
でも、正しいことをしたと自負しているし、後悔していません。
訳の分からないこと書いてすみません。